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ラオス巨大石壺の意味とは?ジャール平原世界遺産の謎に迫る

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世界遺産にも指定されているラオス・シェンクワン県のジャール平原に無数に点在する巨大石壺。

巨大な石壺はなぜそこにあるのでしょうか。

先人たちがわざわざ山から切り出し、削り、運搬してきたその方法と意味とは?

1995年に古都ルアンパバン市、2001年にクメール寺院遺跡ワットプーに続いて2019年にラオスで3番目となる世界遺産に登録されたこの巨大石壺は、文字による記録の存在もなく謎が深まるばかりです。

今回は「ラオス巨大石壺の意味とは?ジャール平原世界遺産の謎に迫る」と題してその謎に迫ります。

 

Contents

ラオスジャール平原巨大石壺の意味とは?

そもそもラオスのジャール平原にある巨大石壺とはどのようなものでしょうか。

この巨大な石壺のことをフランス語でジャールと呼ぶことから「ジャール平原」と名付けられました。

 

ジャール平原の場所

空路は1日1便でビエンチャン空港から約30分。

直線距離で約170kmの距離にあるシェンクワン県の中心地ポーンサワン、ここが石壺があるジャール平原の中心地となります。

陸路ですと7-8時間もかかるようです。

石壺は森の中や丘の上、草原などさまざまな場所に点在しています。

遺跡のポイントはJars Siteジャー・サイトといわれる1~3のポイントに大きく分かれていて、Googleマップで探す際の参考になります。

他にもシェンクワン県を中心に58箇所ものサイトでこのような謎の石壷が発見されており、公開されているのはその内11箇所だけです。

インドシナ戦争においての不発弾が多くあるため、現地ガイドがいないと入ることができないサイトもあります。

世界遺産として登録された面積は173.56ヘクタールに及びます。

 

いつ作られたか

今から約2500年も前の青銅器時代に造られたといわれています。

(日本では鉄器と青銅器が同時に伝わったとされているため、青銅器時代を経ずに鉄器時代になったと考えられていて、青銅器時代の存在しない典型例となっています。)

 

どこで作られたか

10kmほど離れた山中で石壺を切り出した石切り場が見つかっています。

 

どのように作られたか

現地ガイドは次のように説明しています。

「山から砂岩を切り出し、それを砕いて、サトウキビ、水牛の皮を粉末にしたものを混ぜ合わせ(膠(にかわ)のように接着剤の役割がある)、大きな塊を造り石壺を造った。自然の岩だと風化してしまって、現在まで残っていないはずだ」と。

また、地質学者にれば「砂岩」または「花崗岩」を青銅器や石器で彫ったものと判断しているようです。

 

どのような形状

大きいものでは高さが3.25メートル、直径が1メートル、重さ10トンに及ぶものもあり、大人がふたりすっぽりと入れる大きさがあります。

小さいものでは腰掛け程度と大小さまざまです。

中には旋盤で削ったのでは?と思うほど綺麗なカーブを持った石壺もあります。

 

各サイトの特徴

各サイトにも次のような特徴があります。

サイト1は、最大の大きさを誇っており、ポンワーサンからから西に8キロメートル程の場所にあります。

大きい石壺では高さが3.25メートル、直径が3メートル、重さは6トンもあります。

全部で大小様々な石壺が約300個も並んでいて見渡す限り石壺しかなく、ジャール平原の約半分ほどを見渡せます。

サイト2には約100個の石壺が点在しています。

二つの種類があり、一つは人の背丈より高く、細長い形の石壺が並んでいます。

もう一つの石壺には浮彫があります。

サイト3は8つのグループに分かれていて、断面が長方形な石壺が多く、150個ほど並んでいます。

 

材質は?

地質学者の調査によると「砂岩」または「花崗岩」とされています。

 

どのようにして運ばれたか

現地では「巨人が運んだ説」があるようですが、現地ガイドは「象を使って運び出した」と説明しているようです。

現地は起伏が激しい地形です。

人力のみや相当の力なしでの運搬は考えられません。

現代のようなコンピュータや什器がないなか、人知の高さに驚かされます。

 

どのように置かれている?

複数の石壺が寄り添うように並んでいたり、ポツンと孤立しているものもあります。

これが石棺(せっかん)だとすれば生前の関係を表しているのでしょうか。

星座を表しているという一説もあるようです。

地中に深く埋め込まれているわけではなく、そこに置かれているという状態のようです。

現在では、傾いたり割れたりしているものもあります。

 

ジャール平原世界遺産石壺の謎

ここからは、なぜ作られたのかに迫ってみたいと思います。

誰が作った?

一説によると、圧政を強いていたチャオ・アンカ王(Chao Angka)を善良なクン・ジュアム王(Kun Jeuam)が制して祝杯をあげるために「ラオ・ハイ」という米の酒を部下の巨人たちに作るよう命じたとか。

命を受けた巨人たちは、採石場から運んできた石で巨大な壺を作り、そこでお酒の醸造と貯蔵をしたという説がありますがあくまでも伝説でしょうか。

 

目的は何?

専門家の間では石壺の周辺で人骨がたびたび発見されていることから「葬儀用の骨壺として使われた」とする意見が大半を占めているようです。

また、火葬前に軟組織などを分解・乾燥させることを目的に石壺の中に遺体を放置した「浄化説」も支持されています。

ラオスでは、遺体を一時的に窪みの中に放置して、肉体を分解させる習慣があったため有力とされています。

実際に石壷のそばから人骨や、ガラス玉、石器などの埋葬品、陶器などなどの日用品が発見されており葬送に関係していることには間違いなさそうです。。

つまりは墓地とする見方ですが、近くに天井にすすがついている穴や人骨を燃やした跡がある場所が発見されていたりするところからみても納得できます。

石で作られた蓋とみられるものが見つかっていることからやはり何らかの保存用であることは間違いなさそうです。

他にも旅人ののどを潤すための貯水用だったり、米の貯蔵庫ではとか、宝の隠し場所だとすることも言われているようです。

さらには、宇宙船説もあるそうです。

ラオスを構成するラオ族、カム族、モン族は昔ひとつのひょうたんに中に住んでいて、順番にひょうたんを飛び出して来た……とするモン族の神話があるのだとか。

なるほど。

そうすると宇宙船説もありかもしれませんね。

 

まとめ

1930年代にフランス人考古学者コラニー女史によってラオスジャール平原の巨大石壺が発見されたときには既に盗掘によりほとんどの石壺の中は空で手がかりとなるものの多くは残されていませんでした。

また、インドシナ戦争で国内でも特に空爆が激しかった場所のため不発弾が数多く残っており調査活動が制限されるなか、現在でもその意味を巡って調査が続けられています。

今回は「ラオス巨大石壺の意味とは?ジャール平原世界遺産の謎に迫る」と題してその謎に迫りました

歴史的にも興味深く一度は訪れてみたい場所です。